夏と感傷

ウチもお盆のお参りが済んだ。
夏も真っ盛りのこの時期に、汗だくで、お盆に精霊をお迎えする
慣習は、暑さに似合わず神妙で、いつも自分が
ちょっと滑稽でちょっと可笑しく思える。

同じ夏のこの時期は平和記念式典を観たり、原爆についての話題が生活の中に
含まれていて、私にとってはなんとなくセットになっている。
今年も広島県知事さんはとがってたなぁ。

私の戦争というものの初めての「実感」は小学校低学年の頃だったように思う。
もちろん、第二次世界大戦があって云々くらいは知ってはいたけど、その頃、一冊の
「ヒロシマ」についての本を読んだことが現実としての最初の実感だった気がする。

ある日、母に戦争に関する広島の本があるけど読みたいか?と尋ねられた。
本ならなんでも読みたかった私は「読みたい」と答えたけど、
何度か確認された記憶がある。
母は、自己というものを大切にしていたようで、保育園に通っていた頃から、
何か欲しい、何かしたいと私が言うと必ずと言っていいほど確認された。
「それはあなたが本当に欲しいものなのか?やりたいことなのか?」と。
そこで「〇〇ちゃんも持っているから」などというと即刻却下だった。
なので、自分が勧めたからという疑念を払拭するため、そして、おそらく生々しい
内容の本を子供の私が読む覚悟なのだろうか?という確認だったのかもしれない。

届いた本を早速読み始めた、というか最初のページを開いた私はまあまあ後悔した。
その本は、広島での原爆投下についての体験談と被曝した動物や建物、投下後の
街の風景の写真などで構成されていた。特に、写真の数々は子供の私には
衝撃的に恐ろしくて見るのも怖く、ページやその本を触るのでさえ怖かった。
一度は、体験談の内容や形あるものがこんなにも残酷に変形してしまうことに
泣きながら読了したものの、何年も封印することになる。
その後、何度か折に触れて読みはしたけれど。

母は、情深く強く優しく自分の全てを子供のために使ってくれたけれど、
心意気というか信念の人で、本質的には子を育てるという現場に、豊かさや
与えること、できる限り不自由のない生活なんかを
あまり重要視していなかったように思う。

折に触れて子供の私に世界中にある現実をそっと見せてくれた。
戦争、飢餓、不平等、社会的弱者の現実。あの本もその一環だったんだろう。
まんまと私は、ハマったよう。

戦争や原爆について意見や考えはあるけれど、どこまでいっても当事者ではないので
いつも答えが出ない。75年も経つのに、未だに被曝認定のための裁判が行われている
現実もあるし、私が知る以上に困難でとても複雑なのだろうな

ただ、どんな理由があっても突然、人為的に本人の意思に関係なく命や健康が
奪われることに共感も納得する理由も見出せない。
起こった結果を受け止めることと正当化することは全く違うものではないのか。

「絶対破壊の恐怖が敵攻撃を抑止するという核抑止論は、あくまでも人々が
共同で信じている考えであって、即ち虚構に過ぎません」 広島県知事 湯崎英彦

心に残る言葉だった。

私にとって8月は毎年、母の命日やお盆参りと一緒に原爆や戦争がついてきて
夏の乾いた暑さがあまりに対照的で、なんだか感傷的になる季節なのです。

2020.8.12







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